皆様、いつもありがとうございます。
ホントに厳しいご時世です。
それでも強く生きていきましょう。
この記事はこれから料理人になりたい方や
何年も料理人をやってきてふっと「料理人とは」という
疑問がわいてきた方に読んで頂きたいです。
それでは
そもそも料理とは何か?
料理とは、一般的には野菜や肉、魚などの食材を可食部と不可食部に分け、
素材に応じて生食用にしたり、熱を加えて煮炊きしたり、焼き揚げすることを
さしています。
「割烹」がそういう意味ですね。
「割」は食材を切り分けること。
「烹」はそれを煮炊きするということ。
しかし「料理」とは、それだけではない「割烹」のような「Cooking」とは
少し違ったニュアンスも持っています。
「料理」という字を分けると「理」(ことわり)を「料」(はかる)と
捉えることができます。
「理」(ことわり)は物事の真理、道理などを意味します。
それを「料」おしはかるという事です。
つまり物事の真理や道理を見極めるのが「料理」するという事の意味です。
物事の真理道理を見極めるとはなにかというと、当たり前の事を
当たり前にするという事です。
と、言葉では簡単に言ってくれますが、
この「当たり前の事を当たり前のようにする」のが
なかなかできないんですよね。
ワタクシは19歳から料理の世界に入り、今年48歳のオヤジなので
30年近く料理人をやらせてもらっておりますが、いまだに当たり前の事が
できずに落ち込む日もあります。
「あ~なんでこんな事をしてしまったんだろ。」
ってね。
そういう時は大体がめんどうだから手を抜いたとか、忙しさにかまけて
自分の弱さに負けたりした時ですね。
自分にはとても出来ない事ができなかったらそれは仕方ないと諦めもつきますが、
できるはずの事を手を抜いてやらなかったときはホントへこみますね。
何歳になっても日々精進ですよ。
話を元に戻すと、つまりは
「料理人」とは「理」(ことわり)を「料」(はかれる)「人」という事です。
ちなみに「調理」は(ことわり)を「調」(ととのえる)とうい意味です。
魂を吹き込む
ただ単に「食材」を食べられる状態にするだけの「料理」よりも、
そこに魂を吹きこむみたいなイメージです。
料理も芸術も演劇もスポーツもそこに人の魂が吹き込まれているから
人が感動するのではないでしょうか。
絵画や彫刻もそこに魂がなければ紙にかいた落書きや削った木材にすぎません。
サッカーや野球もそこに魂がなければ、いい大人たちがボールを蹴ったり
ボールを棒で打っているだけでなんの感動もありません。
「料理」も同じです。
悟りを開く
余談ですが、もし誰かに「料理人」とは何ですか?
と問われた時に
「理を料れる人の事です。」
なんて答えられたらカッコ良くないですか?
自画自賛で申し訳けないんですが、よくぞこの答に辿りついたなって
感心してしまいます。
まあ、でもワタクシもこの答がでるまでは悶々とした年月を過ごしてきましたからね。
「俺ってなにやってもさえないな~」「なんでこんな事やってんだろ」
「だいたい料理人ってなんだよ」みたいな日々をね。
そんなワタクシに変化が訪れたのは20年ほど前に母親が他界した事ですかね。
葬儀の時にお寺さんをよんでお経をあげてもらった時に仏教徒でありながら
自分の家の宗派すら知らなかったんですから。
それから仏教について本を読んで勉強しました。
写経もして妙法蓮華経方便品第二なら読経もできるようになりました。
「嘘も方便」ってココからきているという事すら知りませんでした。
ちょうどその頃に高台寺で催されるお茶会の点心を調える仕事をいただいたので
点心や精進料理についても勉強しました。
料理人を志すなら、いつかは道元禅師の「典座教訓」「赴粥飯法」を読んでみるべし。
それと、時間とお金に余裕があるなら道元禅師が開いた「永平寺」に行ってみるのも
いいかもです。
境内に聳え立つ壮大な杉林に圧倒されます。
修行僧たちによって磨き上げられた廊下に頭が下がります。
AWE体験ってやつですかね。
行き詰っているアナタも何か悟りのようなものが開けるかもしれません。
今流行りのマインドフルネスですか。
仮に今はなにも変化がなくても「気づこう」という気持ちがあれば
それが必ず「気づき」に辿りつく日が来ます。
ってさも自分が悟ってるみたいですが、少なくとも20年前の自分よりは
「気づけた」かなと思っております。
話がズレましたね。
結論
「料理人」とは、ですね。
日々料理道に精進するということです。
by料理長
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